今回は「楕円銀河のモデル」研究の草分け的存在で、2012年4月よりハワイ観測所 (すばる望遠鏡) 所長を務めている、有本信雄さんを紹介します (情報は2013年4月のものです)。
「私は修士課程に在学していたときに、ありとあらゆる論文を読みました。今の学生 (大学院生) は、すぐ研究、すぐ論文を書きたがる傾向がありますね。私はよく学生たちに言うんです。早いうちから研究に入らず、自分の基礎になるような分野の勉強を徹底的にやろう。20 代のうちの何年か集中して勉強すれば、それが一生を支える基礎、財産になるから、と。」
学位を取得後、ヨーロッパへ渡り、イタリア・シシリー島での国際研究集会で「楕円銀河のモデル」を発表。それが高く評価され、世界の大学・天文台から数多くのオファーを受けた有本さん。日本で 20 代のときに徹底的に勉強したことが現在の基礎となり、また、新たな研究を支えています。有本さんはいったいどのような日々を過ごしてきたのでしょうか。
――子供のころから星に興味があったのですか?
私は新潟の田舎で生まれました。10 歳のころ、近所のお兄さんが小さな望遠鏡を持っていて、月を見せてくれました。生まれて初めて月のクレータを見たとき、とても感動し、そのとき、天文学者になるんだと決意しました。
――10 歳で天文学者になろうと思ったのですか!
はい。でも、どうすれば天文学者になれるのか良くわかりませんでした。あのころは、周りにも天文学者になりたい人はいなかったですから。中学3年生のころ、「天文ガイド」という天文雑誌が創刊されて、創刊号に東京天文台長だった広瀬秀雄先生のインタビューが載っていました。「私は天文学者になるために一生懸命勉強した」という広瀬先生の言葉にとても感銘を受け、私も本当に一生懸命勉強し、東北大学に入学しました。大学に入っても、天文学への興味は尽きることはありませんでした。大学では、最新の天文学を学ぶというよりは、天文学という学問を学びました。もっともっと多くのこと、新しいことを学びたいと思い、大学院進学を決意しました。当時は、新潟の田舎では大学へ行く人も多くはなかったのにもかかわらず、両親は大学院進学に賛成してくれました。
――子供のころからの夢がかなったのですね。
いえ、まだまだです。大学院では、修士課程2年間と博士課程3年間、主に星の進化の理論を学んでいました。修士課程の2年間は本当にたくさんの論文を読みました。よく教授に、「君は研究しないで勉強ばかりしているね」と言われるくらいありとあらゆる論文を読みました。海洋学や気象学の論文なんかも読んでいたんですよ。そのなかでも、銀河の星の種族と進化について大変興味を持ちました。
――銀河の星の種族と進化とはどのような研究なのですか?
そうですね、主に、銀河系や、楕円銀河、渦状銀河などの銀河の形成と進化の研究です。銀河はたくさんの星の集まりです。その中には、さまざまな年齢の星が混在しています。星の色と明るさを知ることができれば、色-等級図というものを使って、星の年齢がわかります。銀河のどこに、どんな年齢を持っている星がいるかがわかります。また、太陽も 50 億年後には消滅するといわれているように、星にも一生があります。星は消滅すると、ガスやちりになって、それが集まって新しい星が生まれます。そのときに星の内部で作られた元素がガスとともに散るのです。ですから、星がどんな元素でできているかを調べれば、銀河で星の誕生や消滅がどのように起こったのかがわかるのです。つまり、銀河の星の位置や、年齢、化学組成から、星の生成の歴史がわかるのです。
――その研究は今もされているのですか?
はい。今は、すばる望遠鏡を活用して、研究してきた理論が合うかどうかをさまざまな角度から検証しています。この銀河の研究は始めてから 35 年になります。この研究が、私の天文学者としての人生の基礎になっているんです。
――それはどういうことですか?
私は大学院を卒業後に、日本学術振興会の研究員になり、1984年に、小平桂一先生(元国立天文台長)の計らいで、フランスのパリ・ムードン天文台で研究員をすることができました。イタリアで国際研究集会の際、「楕円銀河のモデル」を発表しました。「楕円銀河のモデル」は日本で私と吉井譲さん(東京天文台助手、当時)が研究してきたものでした。その発表は高い評価を受け、ヨーロッパ中でセミナーの依頼を受けました。そして、ヨーロッパに限らず、多くの大学からもオファーをいただきました。
私は、パリ天文台、ドイツのハイデルベルグ大学、イギリスのダーラム大学と約 10 年間ヨーロッパに滞在し研究を続けました。ヨーロッパの天文学者は、「ノブオアリモトは日本ではなくヨーロッパが育てた天文学者だ!」なんていう人もいます。
――ヨーロッパでの生活はいかがでしたか?
とても有意義でした。フランスに行くと決まってからも、私はあえてフランス語は勉強しませんでした。現地で、生のフランス語を習得しようと思ったからです。フランス人は英語もわかっているはずなのに、どんどんフランス語で話しかけてくる。渡仏してから6ヶ月後、ムードン天文台のカフェテリアで「君は半年もフランスにいるのになぜフランス語が話せないのだね」と年配の男性から叱咤激励を受けました。その日から、一切英語を話すことを止め、フランス語のみを使うようにしました。その甲斐あってか、フランス語だけではなく、フランスの文化も同時に学ぶことができたと思っています。
ヨーロッパでの研究生活で思ったことは、研究者は自分ががんばった分を目に見える形で残さなければ意味がないということです。これは、友人に言われた言葉ですが、そのとおりだと思います。今もこうして研究を続けていられるのは、「銀河の進化論」の研究をヨーロッパで深めることができたからだと思います。
――その後日本に戻られ、どのような研究をされていたのですか?
東京大学理学部天文学教育研究センター助教授を 10 年間務め、その後は2001年に国立天文台・総合研究大学院大学 (総研大) 教授に、そして2012年4月にハワイ観測所長となりました。国立天文台・総研大教授時代は、すばる小委員会委員長としてすばる望遠鏡を三鷹からサポートしつつ、物理科学研究科長として大学院生教育にも携わりました。教育現場は非常に忙しく、自分自身の研究はほとんどできませんでしたね。
――そうですか。所長になられてからはどうですか?
今は、所長業 90 %、研究 10 %といったところですかね。やはり、自分自身の研究はなかなかできないです。国際研究集会には積極的に行っています。毎週月曜日の午前は研究にあてるようにしています。現在の研究テーマは「銀河考古学」です。すばる望遠鏡の主焦点広視野カメラ Suprime-Cam を使い、銀河系やアンドロメダ銀河、矮小銀河がどのようにできたかを調べています。また、遠方の銀河を観測して、楕円銀河の起源を探るのがもう一つの研究テーマです。
――では、所長業はいったいどのようなことをされているのですか?
すばる望遠鏡の運用のため、日々切磋琢磨しています。マウナケア望遠鏡群の所長さんたちとも頻繁にお会いしています。すばるの中だけではなく、地域コミュニティーの活動にも力を入れています。日系商工会議所の会合に参加したり、ハワイ大学のセレモニーに出席したり、地元の学校で講演を行うこともあります。ハワイに限らず、日本でも講演を行います。また、海外出張も多いです。すばるの研究者にも、ハワイや日本、海外で講演や講義をお願いしています。
ヨーロッパ時代の研究仲間たちと連携して、日本の学生と、海外の学生の共同研究も積極的に行っています。すばる望遠鏡は日本最高峰の技術を誇る望遠鏡ですから、そんなすばる望遠鏡を使って、研究者を育てていくというのはとてもやりがいがあります。
――本当にお忙しいのですね。所長になられてよかったですか?
はい。良かったと思います。所長になってから、新しい人とお会いできることが多くなりました。ハワイの日系人の歴史や記憶を感じながら過ごしています。ヨーロッパとは違い、日本の文化とアメリカの文化が併せ持つ、ハワイならではの独特の空気を楽しんでいます。
すばる望遠鏡が運用されてから 10 年以上たちますが、引き続き日本の天文学者にいい仕事、いい観測をしてもらいたいと切に思っています。力不足ではありますが、全力でサポートしていけたらと思います。
――では最後にメッセージを。
天文学者になりたい人はいっぱいいると思いますが、実際に天文学者になるのは難しいとみんな考えてしまう。しかし、天文学者になりたい人は誰もがなれるんです。天文学者になりたい人は、がんばって欲しい。そして、目の前にある宇宙の神秘と謎をぜひ解いていただきたいです!!